12.大人の純情

ソレは秘密 あの人にだけは知られてはならない秘密
 
      *
 
どうやら今日は日付が変わる前に帰れそうだ。
佐官会議から戻ったロイ・マスタングは、机の上の書類の山が増えていない事を確認し嘆息した。
今日は中尉が非番なので、彼女の机の上で止まっている書類が多いのだろう。
彼女が必要最低限まで処理の必要な書類を減らしてくれるので、サボリ癖の強いロイもなんとかペーパーワークを期限内に終わらせられている。
助かっていると感謝はしても、サボリ癖を改める気はロイにはない。
ただ、軍人である自分がお役所仕事に甘んじている現場が気に食わないのだ。
しかし、中央移動の辞令が出てから、ますます煩雑な書類が増え続け、そんなことも言っていられない状態になっている。
引き継ぎが面倒な訳ではない、出世して行く若造への風当たりが強すぎるだけのことだ。
普段なら定時にとっとと帰ってしまうロイも、流石にここ数日は残業の嵐に飲み込まれている。
面倒なことだ、と手近な書類に手を伸ばしつつ、ロイはもう一度溜息をついた。
 
セントラル行きは、目指したものに近づく大きな一歩ではあるのだから、ロイにとって喜ばしいことではあった。
だが、栄転とはいえ、今よりも縛りが強くなるのは目に見えている。
ここ東部では上官に恵まれ、それなりに自由に己の裁量を振るわせてもらえたが、中央ではそうはいくまい。
加えてセントラルは、ヒューズの死に関わっているであろう軍上層部の存在する地でもある訳で。
一筋縄ではいかない前途の多難さも、見え隠れしているのだった。
 
それにしても、移動にまつわる雑用が多過ぎる。
辞令から移動まで、1週間しかない。
セントラルに連れて行く部下達の処遇に関する手続き、引継ぎ事項に関する中央への問い合わせ、未処理の案件の整理、加えて増えるペーパーワーク。
やらなければいけない事が山積して、ロイはおちおち休んでもいられなかった。
 
しかも、後任がハクロ少将というのも、頭の痛い話だった。
少しでも引き継ぎに穴でもあろうものなら、嫌みな程に落度を追求されるだろう。
あのオヤジは、そういうタイプだ。
そんな下らない事で、足を引っ張られるのも癪だし、有能な所を見せ付けておいて牽制しておくのも有効だろう。
 
そんな様々な思惑を巡らせ、自分の引っ越しの荷造りも出来ぬままに、ロイは執務室で働き続ける。
疲労がうっすらと体表面に被膜を張る。身体が重い。
しかし、明日までにこの一山を片付けておかないと、中尉の銃口が彼の額に照準を合わせる事は、火を見るよりも明らかだった。
倒れる事はあるまい、とタカをくくり、ロイは黙々と終わりの無いように見える書類の山を平らげていく。
しんとした東方司令部の闇の中に、時計の秒針の進む音と夜警の見回る足音だけが響いていた。
 
結局、ロイの予測は外れた。
とりあえずの手元の書類を全て仕上げたのは、既に夜明けに近い頃だった。
また、家に帰れなかった。
そう思い、憮然とした顔で無精髭の生え始めた顎を撫でると、彼は椅子から立ち上がった。
うんと伸びをすると、もう時計を見るのも厭になり、ロイはまた溜め息をついてフラフラと仮眠室へと向かう。
帰れないなら、とにかく眠りたかった。
朦朧とする頭の中で、残り日数と仕事と荷造り日程のやりくりを考えながら、上着を脱いで白いシャツの襟元を寛げると、猛烈な睡魔がやってきた。
ロイはベッドに倒れ込むように、眠りに飲み込まれた。
 
      *
 
翌朝。
ロイが目覚めると、枕元に中尉がいた。
窓の外は明るい。一瞬しか寝ていないような、全く眠り足りない気分だった。
「……おはよう。もう会議の時間か?」
そう言いながら、ロイは中尉の様子が妙なことに気付いた。
わざわざ仮眠室まで来ておいてロイを起こさないのはおかしいし、何だか怒ったような顔をしている。
 
私は何か仕出かしただろうか?
日頃の行いから、そんな自問をしつつロイは寝ぼけ眼で起き上がろうとした。
その瞬間、
「ぐぇっ!」
奇妙な声を上げ、彼は再度ベッドに沈み込む。ロイの首に掛かった何かが、彼をベッドに繋ぎ留めていたのだ。
首が締まった苦しさに咳き込みながら、その何かを確認しようと喉に手をやると、中尉がハッと手を引いたのが目に留まった。
何だ?そう思った瞬間、己の指先に触れた物を認識したロイは一瞬ではっきりと覚醒し、固まった。
 
まさか、見られたのか!?
襟元を寛げて眠ったせいで、首にかけていたそれは外にはみ出してしまったのだ。
ロイは頭を抱えたくなった。
 
「中尉」
とりあえずベッドの上に上半身を起こし、恐る恐る呼び掛けるロイに、彼女の冷たい視線が突き刺さる。
「大佐、あなた莫迦ですか」
「仮にも上司に向かって、莫迦とはなんだ。莫迦とは」
言い返すロイの声は、微妙に弱い。
莫迦莫迦と言って、何がいけないのですか?何故、そこに私の……」
あくまでも強気な中尉の声が、ふっと窄んだ。
そして、ため息とも何とも知れぬ大きな息を吐き出すと、中尉は真っ直ぐにロイを見つめて言葉を続けた。
「私の名があるのですか?」
 
中尉が思わず握り締め、ロイの首を絞めたもの。
ロイの首からぶら下がる、中尉の指す先にあるもの。
 
それは、ロイの個人認識票だった。
 
    *
 
個人認識票、通称ドッグタグ。
表面に所有者の情報が打刻された金属製の小さなプレート。
たとえ戦死時に遺体が原型を留めぬまでに破損しても、ドッグタグが無事ならば個人識別が可能である。
 
ロイの持つそれには勿論、彼の氏名、生年月日、性別、血液型、所属、階級、認識番号などが打刻されている。
そこまでは打刻されて当然の情報で、誰に見られても一向に構わない。
問題は、そのドッグタグの最下行。
有事の連絡先として“リザ・ホークアイ”の名が打刻されていることだった。
 
それは、もちろん中尉の了解を得て作成されたのではなかった。
ドッグタグの作成時に自然に浮かんだ名を、つい、書いてしまったのだ。
出来上がったそれを手にした時、ロイは奇妙な気恥ずかしさを感じ、自分でも知らず狼狽え、そして苦笑した。
ただ、副官の名がある、それだけのことに心波立つ自分がおかしかった。
プレイボーイの名が泣くな、そう思った。
かと言って作り直す気にもなれず、結局、彼はそのドッグタグを身に着けた。
どうせ自分が死んだ時にしか他人に見られることはない物だし、しばらく死ぬ予定もない。
そう思っていたのだが。
 
なのに、まさか本人に見られる羽目になろうとは。最悪だ。
どう言い繕おうか、ロイは寝不足の頭をフル回転させる。
しかし、そんなロイの様子に頓着しない、情け容赦のない台詞を浴びせられた。
 
「全く、どうしてそんな無駄なことをされるのですか」
無駄、と言われて、さすがのロイもカチンときた。
働き過ぎの上に寝不足の頭は、冷静な思考や判断力を容易に失わせる。
「無駄とは酷いな。死んだ時くらい、君の元に行きたいと思っ」
「だから、無駄だと申しております!」
勢い付いたロイの言葉を途中で奪って、中尉は繰り返す。
ロイは本気で腹が立ち、リザの手首を掴んだ。
「無駄だと?」
ギリギリと手首を絞められながら、中尉は顔色も変えず肯定する。
「はい」
「それなら、何故私の副官などに!」
「副官だからです。大佐の認識票が必要になるような事態が発生したなら、私は大佐より先にあの世へ行っております。それに上官を守り切れず生き残る程、私は厚顔ではありません」
 
予測しなかった彼女の返答に、ロイは呆然とした。
真っ直ぐにロイを見つめる意志の力に溢れた瞳は、彼女が本気でそう思っていることを示している。
言葉を無くすロイの耳に、更に彼女の声が響く。
「死んだ者に事後を託そうなどというお考えは、無駄以外の何ものでもありません。ですから、莫迦だと申し上げます」
ロイの手から力が抜けた。
上官冥利、否、男冥利に尽きると言っても良い言葉、しかし、それはロイの望む答えではなかった。
莫迦は君の方だ」
ポツリと言うロイに、リザは答える。
「なんと仰られようと結構です。私はその為にここに居るのですから」
何でも無いことのように答える中尉を、ロイはねめつけた。
莫迦もの、死ぬ為にここに居ろといった覚えは無い。」
静かに返すロイの言葉に、中尉は目を見開く。
「何があっても生き残れ、例え私に何があろうと」
 
静かだが強い力のある言葉は、今度は中尉の言葉を奪ったようだった。
見つめあう二人の間に、僅かな静寂が落ちる。
それは時間としては数秒にも満たない間ではあったが、二人の間には様々な過去と思いが交錯する一瞬だった。
イシュヴァール以降、共に歩いて来た二人が共有する言葉に出来ない何か。
それが双方の言葉の、そして想いの源になっていることは、互いに分かりすぎるほど分かっていた。
 
やがて小さな溜め息とともに、中尉が沈黙を破る。
「努力します。しかし、私は貴方より後には逝きませんので、どちらにしろそのタグは無駄です」
「君も相変わらず、頑固だな」
「お褒めに預かり光栄です」
赤くなった手首を擦り、中尉は立ち上がった。
「お分かりいただけましたら、どうぞ起きて下さい。着替えはこちらにありますから」
何時の間にか、傍らの机には新しいシャツがおかれている。
 
「それから、、、」
ひょいとロイの首から中尉はドッグタグを取り上げた。
「こちらは新しい物をお作り下さい。セントラルに行かれるのですから、良い機会です」
ガシガシと寝癖のついた頭を掻くロイは、何も言わず不機嫌そうに頷いた。
半分は照れ隠し、半分は本当に不満だったのだが、今更そんなことも言えない。
「会議は30分後、遅れられませんように」
そう言って一礼すると、彼女は仮眠室を出て行った。
 
ロイは起き上がると、のろのろと着替え始めた。
何だか余計に疲れがたまった様な、それでいておかしい程に高揚した己の状態を持て余しながら、頭の中のチェックリストにドッグタグの作成という項目を書き加える。
勿論、新しく作成するドッグタグの打刻内容を変える気は、ロイには毛頭なかった。
 
 
 
Fin.
 
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【後書きのような物】
さて、どの辺が「大人の純情」なのか。。。
この後、リザちゃんが取り上げたドッグタグ自分の首にかけて、ちょっと照れてたりすると良いと思う。
ツンデレ実は乙女中尉バンザイ。
 
あ、16巻読みました。『520センズの約束』以降はコミックス派に戻りましたので、初オリヴィエ様に惚れました。
でも、マイオリはどうでしょう。やはり、わたしはロイアイのが好き。
でも、百合ではなくオリアイってありとか思う。(笑)