oversensing 前編

oversensing:【名】 過剰感知
 
       *
 
あれから四日。
私は闇の中にいた。
 
ある事件の最中、化学薬品プラントの爆発に間近で巻き込まれ、大佐を庇ってガラス片と揮発性ガスを浴びてしまった。
怪我は大した事はなかったものの、ガスに目をやられ、私は目に包帯を巻いて病室で暮らす事になる。
戦線離脱、一週間の入院と安静。それが、今の私の仕事だ。
 
狙撃手という職業柄、五感の中でも特に視覚を鋭敏に研ぎ澄まして生きてきた私にとって、視野を奪われるという事は死に直結する恐ろしい事であった。
闇の中、手探りで生きる心許なさ。いくら病院で保護されていても、不安は消えない。
最初はベッドサイドのカップ一つを取るのにさえ、いつもの数倍の時間を要し、挙げ句失敗する有り様。
しかし、闇は予想外に早く私に馴染んだ。
そして私は、視覚以外の感覚器が想像以上に多くの情報を与えてくれる事を知ったのだった。
 
今もそうだ。
廊下に響く規則正しい足音、止まる時に踵を鳴らすのは軍人の癖。
うとうとと微睡んでいた私は、扉の外の人の気配にはっきりと覚醒した。
入室の許可を問う馴染みのある声に、私が否と答える理由は無い。
「お加減は如何ですか? ホークアイ中尉」
扉が開くとともに響く実直そうな声が、フュリー曹長がそこにいる事を示す。
扉からベッドサイドまで成人なら七歩。
規則正しい足音が七つ、そして踵を鳴らすクセ。
 
「ブラックハヤテ号は、変わりなく元気です。中尉のお姿が見えないので、落ち着かないようですが」
そう話しながら近づいてくる彼から、馴染みのある子犬の日向臭い匂い、機械油の匂い、少しの硝煙の匂いがする。
きっと彼は何か(おそらく通信関係)の機器の修理または整備をした後、ここに来る直前に私の子犬を構ってきてくれたのだろう。
もし、今、私の目が見えたなら、彼の軍服に小さな油の染みと子犬の毛が付いているのが見えるのかもしれない。
「ありがとう。世話をかけてしまって、ごめんなさいね」
そう答えながら、薄い硝煙の香りは昨日の銃撃戦の名残だろう、と私は考える。
昨日、ハボック少尉がここを訪れた時は、もっと生々しい火薬の匂いがまとわりついていた。
 
         *
 
昨日の夕方、ハボック少尉がノックの音と共にこの部屋の扉を開けた瞬間、脳の危険信号がチリチリするほど濃密な火薬の臭いが鼻についた。
足早の、しかし気配を消す事に慣れた猫科の獣に似た足取りが、彼の実践能力の高さを無音の中に誇示している。
彼の動きが密やかに空気を揺るがす度、アドレナリンを多量に含んだ汗の臭い、皮膚や布が焼け焦げた臭い、そして鉄の、否、血の臭いが私を取り囲む。
常に私の周囲に満ちていた現場の空気がドッと流れ込み、私は目眩がしそうになった。
 
この状態、彼は現場からここへ直行して来たに違いない。
と、言う事は。
「結局、強行突入で解決したのね」
少尉が驚いて息を飲むのが分かる。彼自身がまとう煙草の匂いが、漂った。
「もう報告が来てましたか!」
「いいえ、何となく」
さすがに匂いで分かった、とは言いにくい。
ヒュウと、彼が口笛を鳴らす。
「流石。鷹の目は包帯越しでも、全てを見通してらっしゃる」
「バカは止して。で?」
ふざけるハボック少尉に報告を促す。
 
「自分も現場から直行してきましたから、大まかな報告しか出来ないンすけど」
予め律儀にそう断りを入れて、彼は話し始める。
「本日〇二一八、裏口を封鎖の上、正面階段から突入。一昨日より間断無く銃撃を続け、ヤツらが疲弊しきった頃を見計らって。後は一気に片がつきました」
「あの薬品倉庫は?」
「倉庫内の酸素濃度を、大佐が錬金術で一時的に下げて下さったんで、ヤツらの作戦はおじゃんッス。二酸化炭素しかなきゃ、爆発するもんも爆発しませんて」
「ああ、最初からそうしておけば良かったのね」
「まぁ、あの中身にあんな細工がしてあったとは分からなかったっスからね。とりあえず、首謀グループは全員捕縛。但し、主犯格の一人は自殺。ウチには負傷者は出たものの、死者ありません。市街地への被害は当該倉庫の爆破とそれに伴う粉塵と異臭騒ぎのみ。民間人の被害は無し。そんなとこッス」
要点を押さえた簡潔な報告だ。私は満足する。
 
「でも、思ったより長引いたわね」
「西方でもセントラルでも取り逃がしたグループっスから、とっ捕まえただけでも大金星らしいっスよ?」
「なら、点数は稼げた訳ね」
「勿論!」
満足気な少尉の口調が、ふと変わる。
 
「中尉が負傷された後、大佐の目の色が変わりましてね。容赦のない、短期強行作戦に切り替わったもんスから」
彼の言葉から、さっきまでの歯切れの良さが消えた。言葉を選んでいるのが、よく分かる。
要は、頭に血が上った大佐が暴走したということか。私は胸の内で、ため息をついた。
「犯行グループの爆破実行犯の野郎、消し炭寸前にされちまって、憲兵が止めてなきゃ今頃……」
「もういいわ」
いつもなら一睨みで制するところだが、今は口で伝えなければならない。
目が使えないというのは、意外に不便が多い。
目は口ほどに物を言うとは、よく言ったものだ。
余計な事を言っている、その自覚はあったのだろう。
少尉はすぐに口を噤んだ。
 
私は話題を変える振りをしながら、一番気になっていた事を尋ねる。
「大佐に怪我はなかったの?」
「勿論ス。俺が中尉の代わりに、大佐の背中にびっちり張り付いてましたから」
「ありがとう」
彼が自ら大佐についてくれていたなら、安心だ。私は胸を撫で下ろす。
自分が戦線離脱して、誰が大佐を護衛していたか。それが最も気になっていたのだ。
 
「犯人たちの護送は」
言いさした私の肩に少尉は軽く手を置いて、私の言葉を奪った。
「中尉、今は俺たちに任せて治療に専念して下さいよ。多分、自分で思っておられる以上に痛々しいッスよ」
「……そんなに弱って見えるかしら」
「早く眼光鋭い鷹の目に復活してもらわなきゃ、俺たちじゃ大佐のサボリを止められないッスよー」
冗談めかして言う彼の言葉は存外真剣で、軍服を着ていない心許なさを私に思い出させた。
「あの人もその内に来ると思いますから、早いとこ元気な姿、見せて下さい。俺をここに来させたのも、あの人っすから」
わざと主語をぼかした彼の気遣いに、私は逆に言葉に詰まる。
 
「じゃ、俺、まだ後片付けがありますんで」
そう言うと、少尉は私の返事を待たずに敬礼をすると部屋を出ていった。
敬礼だけで出て行くとは、私が見えていないのを分かっているのだろうか?
衣擦れの音で察する事は出来るけれど。
それとも本当に、包帯越しに私が見えているとでも思っているのだろうか?
現場の残り香の中、私は暇つぶしにそんなくだらない事を考えたのだった。
 
            *
 
そんな昨日の風景を反芻していると、少し気遣わし気な声音と眼鏡のフレームに触れるカチャリという音がした。
「まだ痛みがあるのでしたら、看護婦を呼びましょうか?」
私の沈黙を病状の為と思ったらしい曹長が、病室の扉の方へ体の向きを変えたらしい衣擦れと靴の音に、慌て返答する。
「大丈夫、痛みはないわ。もう破片も全て抜けたし、傷もほとんど解らないくらいだから」
そう言って微笑んでみせる。が、目が包帯で隠されている以上どこまで伝わったか、自信がない。
いつもながらの彼の気遣いと優しさには、全く頭が下がる。
せっかく時間をとって来てくれたのに、どうも悪い事をしてしまった。
まだ、残務があるという曹長に改めて子犬の世話の礼を言い、また無言の敬礼を受けた私は彼を見送った。
見送ったと言っても、見えてはいないのだけれど。
 
ポッカリと空いた暇を、私は持て余していた。
常に軍の最前線で走り続けてきた私は、余暇というものと縁が無く生きてきた。
せめて目が見えたなら、書類の処理でもするのだけれど。考えるのは、そんな事ばかり。
傾き始めた太陽の光が頬に当たるのを感じながら、私はとろとろとまた眠りに引き込まれていった。
 
        *
 
どのくらい眠っただろう。
人の動く気配がする。私は思わず飛び起きた。
看護婦や病院の人間ではない、彼らなら消毒薬の匂いが必ずする。
「誰?」
思わず誰何しながら枕元の拳銃に手が伸びる。
と、その手が押さえ込まれた。
私の手首を握る大きな手、間違うはずも無い馴染んだ男の匂い。
「大佐? いつからここに!?」
 
返事の代わりに、冷たい唇が私の唇を塞いだ。
 
 
To be Continued...
 
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【後書きの様なもの】
歩き方やクセ、見えない細かな特徴を想像するのって、面白いです。