アマイヤマイ サンプル

1.プロローグ
 
 己の親友の死の三日後、ロイはそれまで上司と部下の顔をして頑なに守り続けていた己の副官リザ・ホークアイと男と女としての一線を踏み越えた。
 否。踏み越えた、と言う表現は不適切かもしれない。それは確固たる意志を持って為された行為ではなかったのだから。そう、正確に言うならば、友の死にどうにも憔悴しきった彼に彼女が手を差し伸べ、彼がその肉体に縋ったと言った方が間違いがないだろう。
 
 それは、まさにヒューズの葬儀の日の出来事だった。きっかけは、思いがけずロイが見せた涙だったのかもしれない。あるいは、今までイシュヴァール戦の悔恨と贖罪から上を目指してきた筈の彼が、彼女の言うところの『公私混同』とも取れる友の仇討ちへの拘りを見せた所為かもしれない。どちらにしても、それはヒューズの死の連絡を受けた時から表向きは通常と変わらぬように振る舞っていたロイが、友の墓の前で、否、彼女の前でだけ見せてしまったほんの僅かな感情の綻びだった。彼女はそれを見逃す事が出来なかったに違いない。
 セントラルでのマース・ヒューズ准将の軍葬に参列した後、ロイはリザを従えて精力的に動き回った。そして、アームストロング少佐への事情聴取の時も、セントラルへの移動の内示を受けたことをリザに話し彼女の同道の意志を確かめた時も、彼は普段の上官の顔を取り戻し、何事もなかったかのように彼女と接し続けた。むしろ、過剰なほどに大総統の座を狙う野心家の顔を見せて、喋り続けた。リザは普段より堅い副官の顔でそれを受け止めながらも、彼の様子を、そして彼の内面の激情を見守っていた。
 ロイは宿泊先のホテルに戻ると独りで部屋に籠もろうとした。胸の内に渦巻く怒りと哀しみの嵐に独り立ち向かう為に。しかし、そんな彼をリザは放っておいてはくれなかった。彼女は彼の部屋に上がり込むと、上官としての顔を崩そうとしない彼をただ見つめ、座り込む彼の頭を壊れ物を扱うようにそっと抱きしめた。しばしの沈黙の後、見上げた彼と彼女の目が合った。何も言わず、リザはただ頷いた。それが全てだった。
 それは同情と愛情との狭間に揺れる彼女の優しさの表現で、ロイは思いがけぬ状況に戸惑いながらも、今まで心密かに求め続けながらも手を伸ばせずにいた相手に手を伸ばした。
 リザは何も言わずに潤んだ瞳でロイを見つめ、それからゆっくりと目を閉じると、彼にその身をもたせ掛けた。ロイは、目の前に生きている温かな彼女の存在を口付けによって確かめ、そして彼女を抱いたのだった。リザはされるがままに彼に身を任せ、白いシーツの上で時折甘い泣き声をあげながら彼の全てを受け入れた。
 不安。哀しみ。怒り。絶望。柔らかな女の肉体は全てを包み込んだ。ロイは過去に幾人も女を抱いたことがあったが、女の肉体というものがこれほどまでに男に安らぎを与えるものだとは、ついぞ知らずにいた。リザの肉体に溺れる行為、それはロイにとって快楽ではなく慈愛に溺れる行為だった。
 その日を境にロイはリザの元に通いつめ、閨を共にすることを常態と為した。元々互いに好意を持ちながら、それを押し殺していた二人だったのだから、それは当然の帰結とも言えたであろう。東方司令部に戻り、彼らの日常が戻っても、その関係は続く事となった。
 
 ロイは性急に彼女を求め、その手に彼女の肉体を抱いた。今まで遠回りをした時間を取り戻すかのように、短期間のうちに何度も何度も。
 彼はリザを抱くたびに、時間をかけて彼女を心も身体も赤裸々な姿に引き剥き、それはそれは丁寧に彼女の肉体を構成する細胞の一つ一つにまで快楽を与え、容赦なく彼女を分解し尽くした。そして、そのすべらかな肌や鍛えられながらも円やかな肉体、背の秘伝と火傷の痕を抱きながら、甘やかな声を上げて啼く女の中に男という名の異物を消えない刻印の如く深々と挿入し、幾度も幾度も彼女を再構築したのだった。
 『ロイ・マスタングの女』という名の生き物に。
 
 彼は後に知ることとなる。その行為が、どれほどの代償を伴うものになるのかということを。女という生き物の愚かさと愛しさが、どれほどに深いものかということを。
 その命を懸けた場面で、彼はそれを思い知ることとなる。
 
2.弱きもの、汝の名は女なり
 
「まったく、セントラルという街は、どうにも面白い場所だな」
 ロイはリザが腕に抱えていた荷物を奪うと、先に立って夜の倉庫街を歩きだした。
 彼女の連絡を受けて業務中に職場を飛び出してきたロイだったが、このような驚くべき事実に直面した後、再び仕事をしに戻る気には全くなれなかった。アルフォンス・エルリックと同じ、空の鎧に引き剥がした魂を定着された死刑囚のもたらした情報は、彼らの想像を遙かに超えたもので、いまだに信じ難い現実であった。リザも自分が偶然行きあわせてその身柄を確保した鎧が、まさかこれほどまでに大きな陰謀に関わるものとは思ってもみなかっただろう。ロイの行動を咎める事もなく、彼女は黙って彼の後ろを歩いている。
 軍の暗部に関わる恐るべき事実は、まさにヒューズの死とも深く関わっているようで、黙って夜道を行くロイの心は闇く燃えた。こうしてセントラルに籍を置き、ある程度自由に動ける地位を持った今、彼は己の目的を果たす為に正規の職務を越えた行動も厭わぬ決意を新たにする。手始めにバリーの存在を、どう利用するか。ロイは思考を巡らせ続ける。
 倉庫街を抜ける暗い夜道は、二人の足音だけを響かせる。静寂の支配する闇の中、沈思するロイの背後から未だに納得出来ないらしいリザの疑問が投げかけられた。
「大佐、あの死刑囚だったバリー・ザ・チョッパーの言うことを本当に信じても良いとお考えでしょうか?」
 微妙な不安を滲ませたリザの問いに、ロイは立ち止まって振り向いた。表情の見えぬ闇の中、彼は淡々と自分の思うところを答えた。
「私は信じて良いと思う。言ってみれば、奴もこの一件に関しては被害者に当たるのだからな。ま、前歴から鑑みて、情状酌量の余地は全く無いが。それに、これほど手の込んだ嘘を言うメリットが奴のどこにある? 奴は我々と取引をして身の安全を確保しようとしているのだから、なるべく我々の不審を買うような事は避ける筈だ」
「愉快犯ですとか」
 考え事をする時の癖で、リザは微かに首を傾げている。歳の割にあどけない仕草が、闇に浮かんだ。おろした長い髪とウエストの細さを強調する私服のリザの姿は、彼女の女の側面を強調する。そんな彼女を見ていると、ロイは自分の胸の内に燻る復讐や陰謀の黒い影がある種の別な感情に置き換わっていく事に気付く。彼はそれを流す事が出来ず、己の視線を空に泳がせた。そして、リザの疑問への答えを返しながら、彼女の方へと歩み寄った。
「奴はある種の人格異常者だ。そんな策略を巡らすくらいなら、人をぶった斬って喜んでいることだろう。それより……」
 そう言いさしてロイはちらとリザを見た。それから、コホンとわざとらしい咳払いをして、さっと手を伸ばすと彼女の腰を抱き寄せた。
「本当に奴に何もされなかったのだろうな?」
 あからさまな不快感を露わにするロイの顔を間近に見上げ、リザは彼の腕の中で呆気にとられた表情をして、それから少し照れたような微笑を浮かべるとコクリと少女のように頷いた。彼女が自分で自分の身を守ることができる人間であることは、誰よりもロイが一番よく知っている。しかし、リザの腰にまとわりつくバリー・ザ・チョッパーの姿を見た瞬間、彼は自分でも驚くほどの嫉妬の感情に心を焼かれたのだった。
 女としての彼女を手に入れて以降、ロイは自分がどれほど独占欲の強い人間であるかということを思い知らされている。焔の錬金術を己に託してくれたリザの想いを踏みにじった自分が彼女に赦されるとは思っていなかった頃、彼は自分の仄かな想いを殺しながら、リザのすべての行動に上官として対応する事を無意識の内に己に課していたのだ。その箍が外れた今、彼は一人の男として当然の感情を露わにできることにすら、喜びを感じていた。例え冗談でも『今夜の火力はちょっとすごいぞ』などと言い放ってしまう事実が、それを如実に物語っていた。
 リザもまたそんな彼の変化を受け止め、職務上の階級においてだけではなく彼に属する事に、戸惑いながらも喜びを感じているように見受けられた。ロイは彼女のそんな変化を喜び、手の中の珠のように彼女を慈しむ。
 セントラルという自分たちを知る人間があまりいないこの街で、私服でいる時の彼らは普通の恋人同士として振る舞うことを自分たちに許す。そして、そのささやかな喜びを、無上のものと感じるのだ。