Never pass the open doors. サンプル

一の扉
 
 何故、自分はここにいるのだろう?
 まったく身に覚えのないまま、この場所に立っている自分にロイが気付いたのは、ほんの数分前のことだった。彼は視線を十時の方向に泳がせながら、眉間に皴を寄せた。
 いつ、自分はここに来たのだろう?
 そんな疑問を抱えながらも、ロイは感慨深い想いで記憶の底に眠っていた懐かしい景色をゆっくりと見回した。
 歪んで左側が開かない門扉。崩れかけた塀。庭にそびえる大きなアーモンドの樹。蔦の絡まる古い煉瓦の壁。何もかもが懐かしく、何もかもが当時のままだった。錆びた門扉に手をかけ、彼は思わず眼を細めた。
 そこはロイが青春時代の大半を過ごし、彼の人生の方向を決定付けた場所だった。またそこは、彼女との出逢いの場所でもあり、彼にとってはある種の聖地のような場所でもある。そう、そこはホークアイ家の建つ場所だった。
 こちらも蝶番の壊れた右側の門扉を器用に開け、ロイは一歩、懐かしい場所へと足を踏み入れた。手入れの行き届いた緑の芝生を踏まないように、彼は注意深く小さな庭を横切っていく。空気すら当時のままではないかと思えるような風景に見惚れ建物を見上げた彼は、ある種の違和感に立ち止まると小首を傾げた。
 よく見知っている筈の風景に感じた何とも言えない違和感の理由は、考えるまでもなくすぐに分かった。今、ロイの目の前にある景色は、彼の記憶の最も深い場所にあるものと寸分違わぬ景色なのだ。端的に言うならば、はるか昔、彼がまだ軍人になってはおらず、錬金術師の卵としてこの家に通っていた頃の景色がそのまま目の前に広がっているのだ。
 あれから数十年が経っているというのに、全く経年変化がないというのはおかしい。否、それ以前に彼は十年ほど前に彼女と共にこの場所を訪れ、朽ち果てたその姿をこの目で見たというのに、この景色はまるで時を逆行したかのようだ。
 ありえない。ロイは疑念と懐かしさの狭間で、己の記憶を探った。
 確か彼がこの家を最後に訪れたのは、『約束の日』から数ヶ月が経った、ある晴れた夏の日のことだった。イシュヴァール政策の為に彼の地へ赴任する直前の慌しいスケジュールの中、彼らは彼女の父親の墓前に全ての報告をする為に、ここに来る為の時間を捻出した。
 あの日、ロイが己の副官と共にこの家の前に立った時、既に彼女の生家は半ば廃屋と化していた。手入れをする者もいない庭は荒れ果て、生え放題に生えた下草で埋め尽くされていた。立っているのがやっとのアーモンドの樹。崩壊した物置小屋。崩れて雨漏りのする屋根。蔦は家を覆い尽くし玄関の位置すら判別し辛いほどだった。
 人の住まない家は、あっという間に朽ちていく。分かってはいても、それは辛い現実だった。時間がない中、彼は辛うじて家屋だけは錬金術で修復したが、それが気休めでしかない事は、彼女にも彼にも分かっていた。
 そして、その足で彼らはイシュヴァールへと旅立ったのだ。門扉を閉めた瞬間の、哀しみと諦念の入り混じった彼女の表情が今も忘れられない。あの訪問から十年以上経っても、物悲しい記憶は未だ薄れず彼の中にある。
 
 そう、彼らがエルリック兄弟や志を共にする仲間らと共に国の命運を賭けて闘った、あの『約束の日』から既に十年もの年月が経ってしまった。ロイも壮年の男盛りと言われる年齢となり、将軍の地位を得、テロや暗殺の危機に脅かされながらも、必死にイシュヴァールの地に己の贖罪の種を根付かせるべく奮闘している。
 十年前、彼が東方司令部の司令官としてこの地に着任し、イシュヴァールの地に赴いた当初、彼に対する風評と風当たりは本当に酷いものだった。彼のイシュヴァール入りは民衆の冷ややかな視線と絶望とを持って迎えられ、『イシュヴァールの英雄』と名付けられたロイの過去が、どれ程重い枷であるかという現実を如実に表していた。
 彼は多くの協力者と共に地道な努力を続け、そのお陰で少しずつ地域の信頼を得ることが出来てきたようにも思える。だが、十年が過ぎた今でも、彼の過去の行いが生んだ憎しみの連鎖は未だ途切れることなく、報われぬ努力は砂漠に植樹をし続けるが如きだった。だから、彼らは私人としての時間すら惜しんで馬車馬の如く働き、彼女の生家を訪れることもなかったのだ。
 
 それが、どうだろう。今、彼の眼前に広がる景色は、どう考えても彼の師匠が生きていた頃と変わらぬ様相を呈している。
 誰が手入れをしたのだろう? 彼女が人を頼んで手を入れさせたのだろうか。それにしては、全てが新しすぎる。昔のままの材料など手に入るわけはないし、ロイ以外の錬金術師がこの家に関わることを、彼女が許す筈もない。
 そして、それ以前に私は何故ここにいるのだろうか? ロイの疑問はふりだしに戻り、彼は頭を捻った。
 師匠の研究資料を取りにでも来たのだったか。いや、この忙しい時期に休暇など取ろうものなら、彼女に何を言われるか分かったものじゃない。では、何故。ロイは二つの疑問を抱え、必死に己の記憶を手繰りながら、何か解決の糸口でもあろうかと、ホークアイ家の扉へと近付いた。
 昔と変わらず、ピカピカに磨き込まれた真鍮のドアノブに手をかけようとして、ロイは昔の習慣でふと視線をあげた。
 丁度彼の目の高さにあるノッカーは、彼の記憶にあるとおり握り手の部分だけが変色していた。ロイはドアノブからノッカーに己の手を移動させ、自分の顔が映り込む鈍い光を放つ金属の表面を指先でそっと撫でた。ヒヤリと冷たい金属の感触すら、彼の記憶のままだった。ロイはしばし己の疑問を忘れ、密やかに微笑む。
 ロイがこの家に錬金術の修行の為に通っていた頃、彼がこのノッカーを鳴らすと、金の短い髪を揺らしながら彼女がこの扉を開けてくれるのが常だった。イシュヴァール政策に関わるようになってから髪を切った彼女の姿に多少の幼さを感じるのは、彼のそんな記憶が関係しているのかもしれない。そんなことを考えるロイの胸の内は、懐かしい記憶でいっぱいになっていく。
 普段なら暗殺の危機にぴりぴりと神経を尖らせ、常に殺気に対するアンテナを張り巡らせている筈の彼が、これほどまでにリラックスして無防備な姿をさらけ出している状態はあまりに不自然だった。しかし、彼自身は、その事実に全く気付いていない。それほどまでに、そこにあるのは静謐に包まれた、たおやかな空間であった。
 ロイは長い指でそっとノッカーを掴む。
 誰も出てこなければ、それはそれで構わない。誰かいるなら、まぁ、誰かといっても彼女以外には該当する人物は存在しないのだが、ノックの音に反応して出て来てくれるに違いない。どこか楽しげな様子さえうかがわせながら、彼はドアをノックする。
 カツカツ。
 金属質の音を立て、ノッカーが鳴った。
「はい」
 ドアの向こうから響くハイトーンの声の返答を耳にした瞬間、ロイは驚愕に眼を見開き、自分の耳を疑った。
 そんな、まさか。