ぱらいそ サンプル

Caution!:第一章は、頭からR18描写がありますので、サンプルは第二章の冒頭部です。
直接的な表現はない(筈)ですが、事後パートですので15才未満の方の閲覧を禁じます。


2.ロイ

 彼はすべてを諦めていた。
 おそらく、あの時から、すべて。
 それは諦念と言うには浅すぎて、欲望というには深すぎる、何とも因果な感情だった。
 彼女は傍にいる。おそらく、一生。
 だが、彼女を女として手に入れる事は出来ない。
 身体はよしとしても、心は多分。
 何故なら彼は、彼女の心が深い闇を抱えている事を、知っていた。
 そう、あの日、あの秘伝を受け取り、彼女を抱いた瞬間から。
 秘伝は、彼に様々な現実を提示した。
 まず手始めに、若い理想の無意味さを。
 そして、大義名分の裏にある軍人の本当の姿を。
 何よりも、師匠の秘伝は、彼女の背中を損ない、その心を完全に閉ざしてしまっていた。
 故に、彼は彼女を騙し続ける。
 彼が彼女の肉体だけを欲しているのだと。
 そして、彼はすべてを計算した上で、己が手にすることが出来るものだけを手に入れる。
 そうすれば少なくとも、彼女は彼に身体だけは開いてくれる。
 ずっと彼の傍らにいさせることが出来る。
 それは、師匠が彼に残してくれた数少ないチャンスだった。
 後悔と懺悔に縛られた絆。
 そんな、黒くて汚いものすら利用して、彼は彼女を縛り続ける。

       §

 窓の外は一面の闇だった。
 立て付けの悪い窓を力任せに開けると、ざっと生温い風が音を立てて吹き込んできた。さっき彼女が拾い集めたばかりの書類がまた風に飛ばされ、ロイは苦笑すると腰を折ってそれらを拾った。
 重石代わりに万年筆で書類を押さえつけ、ロイは窓から身を乗り出すように外を眺めた。星一つ見えぬ闇夜に目を凝らしても、三つ隣の部屋から漏れる光が植木に反射するのが見えるだけで、人の気配は騒々しい風に消されて感じられない。きっと彼らの情事も、この風が隠してくれているだろう。
 まぁ、自分としては隠す必要もないと思ってはいるのだが。
 ロイは思い切り開け放った窓から吹き込む風に髪を乱されながら、窓から離れた。彼女が気にするであろうから、とりあえず換気の為に窓を開けたものの、彼は部屋の中から逃げ出していく彼女の残り香を勿体無く感じていた。
 徐々に薄くなっていく蒸れた女の体臭は、いつ抱き寄せても直ぐに視線を逸らしてしまう彼女の儚さのようで、自分しか知らない鉄の女の隠された顔をロイは窓の外の闇に追いかけた。
 今にも雨が降り出しそうに湿気た空気はぬめるように彼にまとわりつき、彼が先刻まで抱いていた女の肌を思い起こさせる。ロイは彼女に触れていた己の手を見た。
 掌に吸いつくような肌は、初めて彼女に触れた時から全く変わっていない。肌だけではない。あの怯えた瞳も、人を信じぬ頑なさも、あの日から何も変わってはいないのだ。
 彼は考え込むように、顎に指を当て過去を覗き込もうとした。と、不意に薄れた筈の彼女の匂いが鼻を掠める。何故、と思う疑念は一瞬で解けた。彼のその指先は、さっきまで彼女を酷く悦ばせ、辱め、啼かせていたのだ。彼女にわざと聞かせるように、その体液を舐めとってはいたが、それでは追いつかないほどに彼女の身体は涎を垂れ流し、彼の指と言わず掌までを濡らしていた。後始末の際にふき取ったとはいえ、残り香があって当然だ。
 ロイは先程の情事を反芻しながら、べろりと己の掌を舐めた。彼女の味と彼女の匂いが、彼の中に戻ってくる。あの艶かしい吐息と、快楽を堪える表情、誰も知らない彼女の女の顔が浮かぶ。
 さて、次はいつ彼女を『残業』に誘ったものだろう。
 情事の余韻を密かに楽しみながら、ロイは楽しげに笑うと固い窓を力任せに閉じる。そして、何食わぬ顔で真面目な国軍中佐の役割を演じる為、机上に放ったペンを手に取ったのだった。

 彼が風に乱れた髪を直し、書類に目を通しサインをするという単純作業を繰り返しているうちに、ようやく彼女は化粧室から戻ってきた。
 今日は時間がかかったな。そう思いながら、ロイはちらと彼女に視線を向けた。
 化粧室から帰って来たリザは、酷い顔色をしていた。僅かに腰が引け、動きがぎこちないのは、さっき彼が容赦なく彼女の体力を消費させたせいなのは分かっていた。
 だが、それに関して彼は何も言わぬまま、黙々と仕事を続けた。どうせ何を言ったところで彼女は優等生のような副官の顔でしか返事をしてくれないのは分かっていたし、たとえ文句を言われたところで彼女の肉体を目の前にした己が自重など出来ないことも分かっていた。
 ロイは手元の下らない書類にサインをしながら、彼女に隠そうともせず、大きな欠伸をする。彼女との情事さえ済んでしまえば、こんな時間まで司令部に残っている理由は彼には全くなかった。
 本来なら、こんなペーパーの一ダース程度、昼間に本気を出せば半時もあれば片付く簡単なもので、残業などする必要もないものばかりなのだ。それをわざわざ午後を丸々サボり、彼女と二人きりになる時間と理由を作っているのだから、我ながら涙ぐましい努力だと、彼は自嘲の笑みを浮かべる。
 彼の笑みを見とがめた真面目な副官はわざとらしい溜め息をつくと、いつもの小言を垂れ始める。
「まったく、笑っているお暇がおありでしたら、さっさと仕事を済ませて下さい。私は明日は非番ですが、中佐は明日も通常勤務でいらっしゃいますでしょう?」
『ああ。だから今夜なら、君を足腰が立たなくなるまで抱いても問題ない、と判断したのだよ』
 ロイは胸の内でそう答えながら、表面上は何も言わずに肩を竦めただけで、彼女の言葉をやり過ごした。サインを済ませた書類を脇によけ、ロイは彼女を手招く。
「これで、君に渡された書類は全てだと思うが」
 彼の方へと歩み寄ってきた女は、まったく無防備に彼の隣に立つとパラパラと書類の確認を始める。ロイはちょうど己の視線の高さにある彼女の豊かな胸を、横目で密かに愛でる。
 この細い腰を抱き寄せ、もう一度彼女の意識が落ちるまでこの柔らかな身体を蹂躙したら、何かが変わるだろうかという不毛な考えが彼の脳裏を掠めたが、それを実行するには彼には時間がなかった。
 彼の内心など知らぬリザは書類のチェックを終えると、まるで今までずっと真面目に仕事をしていたかのような顔で、彼に一礼して「お疲れ様でした」と言った。
 残業と称してデスクの上で副官とセックスをして、申し訳ばかりの書類を片付けただけで『お疲れ様でした』と言われる状況の滑稽さに、ロイは笑い出しそうになりながら、それでも彼女の為に真面目な顔で一言「ご苦労」とだけ返した。
「遅くなったな。付き合わせた詫びに、送っていこう」
「大丈夫です、一人で帰れます。中佐もお疲れでいらっしゃいますでしょうから」
「遠慮することはない。それに、君の家の方に寄らねばならん場所がある」
 リザの表情が微妙に揺れる。
「先程のお電話の、ですか?」
「流石、察しが良いな。謝罪代わりに顔だけ出してくるさ」
「そうですか。でしたら、お言葉に甘えさせていただきます」
 明らかな安堵と微かな不安を混ぜた複雑な彼女の表情に、ロイは肩を竦めた。
 これで、また彼女はロイの女癖を誤解し、リザ自身もその大勢の女の中の一人でしかないと信じ、ロイと彼女の関係が肉体だけのものだと思い込もうとするだろう。
 それで彼女の心の平穏が保たれるなら、彼女が信じたいものを信じればいい。ロイとしては、いかにも男の抱かれてきたという風情を隠せない、生まれたての子羊のように腰の引けた無防備な彼女を、他の男の目に触れさせることなく、彼女の家に放り込むことが出来れば、他はどうでも良かった。
「行くぞ」
「ですが、書類は」
「どうせ今提出しても、明日の朝でも同じだろう。出しておくから、そこに置いておきたまえ」
 そう言ってさっさと立ち上がるロイに、リザは慌てたように書類をまとめると、自身の私物を取りに走る。走ると下腹に響くのだろう、ますます腰が引けてしまうリザの姿を眺めながら、ロイは少々やりすぎたかと苦笑した。
 ロイは手の中で自動車のキィを回しながら、彼の後をついてくるリザを待つ。
 手に入れることは出来ないけれど、その肉体だけは蹂躙することを許される、この世で一番愛しい女を眺める彼の眼差しは、窓の外の闇ほどに暗く淀んでいた。

「あら、ロイさん。もうお仕事はいいの?」
 カランとカウベルを鳴らし入った店の馴染みの女は、直ぐに彼を見つけてそう声をかけてきてくれた。リザを送り、車を置いた彼が訪れた店は、こんな時間になってもまだ盛況で、人の話し声がさざ波のように満ちていた。ロイはその会話の波に紛れ込むように、低い声で女の呼びかけに答えた。
「ああ、助かったよ。アリス」
 外向けの伊達男の顔を作り上げたロイはにっこりと愛想良く笑うと、振り向いてバーテンダーに手を上げてみせる。常連である客の合図に、バーテンダーは頭を下げることでオーダーが通ったことを示し、傍らのバーボングラスに手を伸ばした。
 ロイは自分を呼び止めた女の隣に陣取ると、その耳元で囁いた。
「君の演技力には、まったく感心するね」
「あら、ロイさん。お上手を言っても何も出ないわよ?」
「いや、本心さ。お陰で上手くことが運んだ」
「でも、副官さん、ずいぶん怒っていらしたみたいだけど、大丈夫?」
「いいんだよ。彼女が怒れば怒るほど、私は遊び人と認識されて、君らと会っていても疑われない」
「そんなにまでして、欲しいの?」
「ああ。喉から手が出るほど欲しいね。君のくれるものなら何でも欲しいくらいさ」
「あら、またお上手ね」
「嘘じゃないさ、アリス。その為に、私は今日もこんなに貢ぎ物を持ってきてしまった」
 そう言ってロイは、懐の札束の入った袋をちらりと覗かせてみせる。女の声が一オクターブ跳ね上がる。
「素敵ね、ロイさん。今日は何のお話をするの?」
 目の前に無言で差し出されたダブルのバーボンで唇を湿し、ロイはまた表面だけの笑顔を浮かべてみせる。
「そうだな。最近の君のお客さんが何か面白い話をしていたなら、私に教えてくれるかな」
「そうね、じゃあ、スミス准将とそのお連れ様のお話が面白いかもよ? お金が勝手に増えるお話って、素敵そうじゃない?」
「それは興味深いね。是非頼むよ」
 バーの喧騒に紛れ、夜の女は彼の耳元に唇を寄せ、ひそひそと内緒話を始める。それは、業者と事務次官との癒着を示唆する内容を秘めていた。有益な情報と、彼女の電話のお陰でリザを抱く口実が出来た二つの礼を兼ね、ロイはいつもより多額の金を女に渡す。
「こんなに良いの? ありがとう、ロイさん」
 口ではそう言いながら、直ぐに封筒をしまってしまう女の現金さにロイは苦笑した。誰かさんもこのくらい分かりやすければという思いが掠めたが、そうなると彼は彼女の肉体を抱くチャンスさえ失う可能性に思い至り、彼は直ぐにそれを撤回した。ロイは素知らぬ顔で、彼にいつも情報をくれる夜の女に礼を言う。
「こちらこそ、感謝するよ」
「そう言ってもらえると、嬉しいわ」
『君のお陰で労せず彼女を抱けたのが、今夜の一番の収穫だよ』
 胸の内だけでそう答えたロイは、にこやかに深夜のバーを後にした。表現しようのない疲労と微かな酔いに身を任せ、彼は闇夜をゆっくりと歩いていく。

 遊び人。色男。様々な噂を身にまとい、彼は夜の街を己のテリトリーとする。彼にとってリザ以外の女たちとの密会は、純粋に情報を得る為の手段に過ぎない。しかも、彼が女たちと浮き名を流す度、リザが安心して彼に抱かれてくれるという副産物までついてくるのだから、彼としては願ったり叶ったりである。
 ロイは闇の中で独り、立ち止まった。
 願ったり叶ったり?
 果たして本当にそうだろうか。
 ぽつりと首筋に、雨の気配が触れる。
 別に彼とて、こんな歪んだ関係を本心から望んでなどいない。好意を示せば好意が返ってくる、そんな当たり前を望むことさえ出来ない不自由さが、彼を歪めただけなのだ。
 彼が好意を示せば、彼女が苦しむ。それなのに彼女の瞳の奥底には、確かに彼が住んでいるのが見える。ならば、彼女が苦しまない為には、彼は悪い男になるしかなかった。それで、彼女が安心して、彼に身を任せることが出来るなら容易いことだと彼は思っていた。それで、彼女の肉体だけでも手に入るのなら。
 ずっと、そう思ってきた筈だったのに、なぜ今夜はこんなことを考えてしまうのだろう。
 情事の後、執務室の窓を開けてからずっと彼にまとわりついていた重い湿気った空気が、雨粒となってぱらぱらと彼の上に降り注ぎ始める。
 柄でもない役割に、いい加減疲れ果てている自分を彼は自覚する。そう、こんな雨の夜には。
 そう言えば、あの夜も雨が降っていた。
 ロイは霧のように煙る雨を見上げ、闇の中に過去を見透かした。