Desert Rose サンプル

1.出立

「大尉、旅に出ないか?」
 聞き慣れた男の声が紡いだ思いもかけない言葉が、リザを呼び止めた。
 昼下がりの東方司令部は穏やかな陽射しに包まれ、珍しくロイのスケジュールには会議の予定も面談のアポイントメントも入っていなかった。これ幸いとリザは溜まった書類を駒鳥のようにせっせと、彼女の上官であるところのロイ・マスタング准将の元に運び続けているところだった。
 久方ぶりの平和な午後を破る、ロイのびっくり箱のような発言に、リザは意表を突かれ危うく手の中のファイルを落としそうになった。
 この男は、また何を質の悪い冗談を言っているのだろう。リザは呆れた顔で、説教モードに突入するべく、ふざけた上官の方を振り向いた。
「准将、ご冗談もいい加減になさって下さい。どこにそんな時間があるとお思いですか。目の前に積みあがった書類すら、先程から全く片付いていないというのに。最低でも、そちらの机上にあるものは、本日中に片付けていただかないと困ります。それに、仮に時間があったとして、私が貴方とご一緒に旅行をする理由が」
「あるんだよ、それが」
「え?」
「そんな暇も、そんな理由も、どちらもね」
 立て板に水のリザの小言を遮り、ロイは悪戯な表情を浮かべると、当たり前のようにそう言った。
 あまりに堂々とした男の態度に、リザは一瞬、自分が忘れてしまっている彼の出張や、地方での式典があったかと、頭の中のスケジュール帳をめくった。そんなリザの困惑を笑い、ロイはキィと椅子の背を鳴らすと、謎かけをする子供のような顔で言った。
「先程、大総統閣下から、ホットラインで連絡をいただいた」
 グラマン大総統から? 
 ホットラインという言葉に警戒の表情を強める彼女に向かい、ロイは不敵な顔でニヤリと笑うと、思いもかけぬ事を言い出した。
「『後は君が直接行って、決めて来るといいよ』とのお言葉だ」
「いったい、何のお話でしょうか?」
 ますます話が見えなくなり、リザはもって回った物言いをする彼を、微かな苛立ちを込めた眼差しで見据える。
 准将という地位に着き、イシュヴァール政策の為に厳しい現実と向き合うようになってからも、彼はこうして昔と同じ様に、彼女をからかう。それが彼の息抜きだと分かっていても、からかわれる方は堪ったものではない。
 だが、敵も慣れたものである。リザが怒り出さないリミットをきちんと見計らって、ロイはサプライズの種明かしをしてみせた。
「そんな怖い顔をするものじゃないよ、大尉。我々の公約のひとつにあるだろう、ここ、イシュヴァールを鉄道交易の拠点として繁栄させる計画が」
 ロイのその言葉で、リザはようやく彼のいう『旅行』の指す意味に思い至る。リザは驚きに思わず目を見開いた。
「まさか、シン国に行かれると言うのですか?」
「流石大尉殿、ご明察だ。これだけで話が全て通じるとはな」
 おどけたロイの台詞を冷ややかな表情で流しながら、リザは思いもかけない吉報に、自分の鼓動が早くなるのを感じていた。
 彼らがホムンクルスと全力の戦いを繰り広げ国を守り、ブラッドレイ政権が倒れたあの日から、彼らがイシュヴァール政策を進めるのと時期を同じくして、アメストリスは国家として他国との国交正常化の道を模索していた。
 その手始めとして、ロイを介してシン国との間で水面下の交渉が始まったのは、一年ほど前のことだった。
 幸いなことに、現在国交が断絶しているとは言え、シン国とアメストリスとの間には大きなトラブルはない。その上、二年前のホムンクルスを巡るあの事件の際、彼の国の皇子リン・ヤオとロイとの間に伝が出来たというのだから、あのやり手のグラマンがこれを利用しない手はなかった。
 砂漠に埋もれた鉄道を復活させ、シンとの交易を始める事は、アメストリスの国策の一つとして掲げられることとなった。
 ロイの方でもイシュヴァール政策の一環として、この地をシン国との交易の国内最東端のベースにしようというのが狙いであったから、まさに両者の利害は一致した。だから、ロイもグラマン大総統を通じ、リンが皇帝の地位を継ぐ以前から彼との親交を絶やさず、シン国との交易を始める為の準備をコツコツと進めてきたのだ。
 しかし、それがこれほど早く、実現に向けて動き出そうとは。
 リザは内心の興奮を隠し、淡々とロイに問う。
「で、私が准尉とご一緒せねばならぬ理由は、何なのでしょう? シンに行かれるのでしたら、あちらに滞在経験のあるロス少尉をお連れになった方が、よろしいのでは?」
「分かっていて聞くのかね、君は」
 あくまでも生真面目を装ったリザの言葉に鼻白んだ様子で、ロイはデスクの上に両肘を付き、指を胸の前で組んだ。
「誰もが納得できる建前は必要ですから」
「建前、ね。君がそんな風に言ってくれるようになっただけ、進歩だと思うことにするか。理由、そうだな……理由か」
 苦笑して考え込む素振りを見せた彼は、直ぐに視線を上げ、まるで演説の草稿を読み上げるような棒読みで彼女を論破しにかかる。
「一つ、シン国人は恩義を大切にする人間だ。現皇帝の直属の臣下だった者の命を救った君が直接出向けば、向こうも無碍には出来まい。一つ、君は私の副官だ。常に私の補佐をするのが、君の当然の職務だ。一つ、シン国は多民族国家であり、彼の国の政治情勢は未だ完全に落ち着いているとは言えない。そんな国に外交に行くのだから、私には優秀な護衛が必要だ」
「……分かりました、お供させていただきます」
 リザは全面降伏の体で、彼の命令に従う旨を宣言する。だが、ロイの言葉は止まらない。
「一つ、君は私が道を踏み外さぬか、見届けてくれるのではなかったかね?」
「准将、その論法は卑怯です」
「一つ、晩餐会の席には女性随行員が必要だ。ドレスを着ろとは言わないが、むさ苦しい政治の場の花になるというのは、どうかね」
「何を莫迦なことを」
「一つ、私の精神安定に協力してくれなくては」
「いい加減、撃ちますよ?」
 徐々に脱線していくロイは、いかにも分かりやすいニヤニヤ笑いを顔中に浮かべている。余程、この鉄道交易計画が順調に動き始めたことが嬉しいのだろう。
 だが、まだ何も始まっていないのに、この浮かれ様はどうしたものだろう。リザが露骨な呆れ顔を作ると、流石にロイも己の浮かれっぷりに気付いたらしい。彼は表情を引き締めると照れ隠しのように、コホンとわざとらしい咳払いを一つした。
「まぁ、冗談はこのくらいにして、君は今回のシン国訪問への随行は納得してくれたのかね」
「はい」
 元より否やを言う気もない彼の問いに、リザは簡潔に返答すると、話を振り出しに戻した。
「それより本当なのですか? 大総統閣下のゴーサインが出たと言うのは」
「ああ」
 ロイはそう言って、窓辺の光を背に受け、椅子から立ち上がった。ゆっくりと机に沿って歩きながら、彼は言う。
「シン国は前皇帝が崩御し、あのリン・ヤオが帝位につき一年半、彼も統治者として少しは落ち着いた頃合いのようだ。対する我々の方も順調とは言い難いが、イシュヴァール政策の基本的な目途が立ったと思えるようになった。具体的な実施時期などを考えるには尚早ではあるが、シン国との国交を深めた上である程度の概要を決めてしまうには、良い頃合だと思わないかね?」
「おっしゃる通りかと」
「君も知っての通り、以前から通商条約の締結に関しては幾度もあちらとの話し合いの場を持っている。色々どちらにも主張はあり、互いに譲れぬところもある。それならばいっそ、当事者である私があちらに行って、膝を詰めて話をしてくるのが早いのではないか、というのが大総統のお考えらしい」
 まるで自分の言葉を噛み締めるように話すロイは、感慨深い表情を浮かべている。
 それもそうだろう。彼がこの二年取り組んできたイシュヴァール政策は、牛歩の如きもどかしさでなかなか彼らの思うようには進んではくれなかった。元より承知であったこととは言え、自分たちの前途の多難さに目眩がするような思いがしたことも幾度もあった。それが、他国との交易拠点という重要な役割を担えるほどに、この地は都市としての機能を回復したと見なされるようになったのだ。
 それが、彼にとってどれほど喜ばしい事かは、想像に難くなかった。先程の彼の過ぎた悪ふざけも、その心情のひとつの表れなのだろう。
 リザは駿馬のように通り過ぎてしまった険しく慌ただしい月日を思い、それが報われた喜びに自分も頬を緩めた。
 くるりとデスクを半周したロイは、准将閣下とは思われぬお行事の悪さで机の上に腰掛けると、ゆったりと足を組んだ。
「今回の往訪で、通商条約の詳細をきっちり詰めた上で公式な文書を交わして来ることが、我々の仕事だ。責任は重大。失敗は許されない。心して掛からねばな」
そう言って表情を引き締めるロイに、彼女は静かに頷いてみせた。
「外貨を稼ぐと言う意味では、シン国もわが国との交易には非常に乗り気だ。新皇帝にしても新たな外交先を獲得したとなれば、政治的な足下を固める良い材料になるだろう。当然、私の出世の材料にもなる大きなチャンスだし、グラマン大総統閣下に恩を売ることも出来る。まさに一石二鳥どころの話ではない」
 確かにアメストリスという国家単位で見ても、領土拡大戦争終結という難しい課題を抱えているこの国が、シン国との正式な国交を開始するとなれば、それが他国との関係改善に与える影響も大きい。未だ小競り合いの続くアエルゴとの第二次南部国境戦を収めることは難しいとしても、シンとアメストリスが手を組む事は、アエルゴに対する大きな牽制となるだろう。それは即ち、この国を総べるグラマン大総統の直接の利益となる。
 また、今現在は砂に埋もれてしまっている鉄道ルートの再開発は、公共事業としても非常に有益だ。彼らが力を入れるのも、当然のことだった。
「承りました」
 そう答えたリザは、ある問題に思い当たる。
「大変光栄な任務ではあるのですが、准将閣下がお留守の間の東方司令部は、どうなさるおつもりですか?」
「それほど長く、あちらに滞在するわけでもない。移動を含め、長くても二週間。ならば実質的なことは、ブレダとマイルズに任せておけば問題ないだろう」
 ロイの言葉に、彼女は素直に頷いた。
 慎重派のブレダと、雪の女王譲りの意外なところで急進派のマイルズは、アクセルとブレーキよろしくロイの重要な参謀として、彼の政綱を把握していた。
 また、万が一トラブルが起こったとしても、イシュヴァールの民関連のことならば、マイルズが表立って動いてくれるだろうし、東方司令部内のことならば、ブレダが取り仕切るだろう。しかも、全く共通点のなさそうな彼らは、意外な事に互いをリスペクトしあっているらしい。何かあったとしても、この知能派の凸凹コンビに任せておけば何とかなるだろう。
 納得顔のリザに、ロイは意気揚々と問いかける。
「さて、他に気になる事は?」
 リザはこの地に残していく心配事の種がほぼ無い事を確認すると、胸に抱いたファイルの中から彼のスケジュールを管理するノートを取り出した。
「出立のご予定は? それによっては、スケジュールの調整が必要になります」
「二週間後」
「そんなに急にですか?」
「我々の責務と人生の残り時間を考えれば、何事も早過ぎる事などないのだよ」
 そう言って笑うロイの何とも言えぬ複雑な表情に、リザはハッと胸をつかれる。だが、ロイは己の言葉に頓着することなく、トンと机から降りると彼女の方へと歩み寄ってきた。悪戯な顔で、彼は笑う。
「忙しくなるぞ。ついて来るか?」
「何を今更」
 澄ました顔でそう答えたリザの目の前で、ロイは上機嫌で話し続ける。
「では、早速、旅の手配をする事にしよう。まずは、同行者の人選からか。それに、車の手配と馬の準備もせねばならんな。さて、何処から手をつけるべきだろう」
 リザは目の前に立つ准将閣下に向かい、極上の笑顔でにっこりと微笑んだ。そして、今にも部屋から出て行こうとする彼に、いつもの冷徹な声で言い放つ。
「そうですね、まずは机上の書類から手を付けていただきましょうか。何度も申しますが、これを片付けていただきませんと、旅に出るどころか、この部屋から出ていただくことすら出来ませんよ? またおサボりになるおつもりでいらっしゃるようですが、幾らビッグニュースを目くらましにされても、私の目は誤魔化されません」
「……ばれていたか」
「当たり前です」
 苦笑するロイをデスクに引き戻しながら、リザは逸る気持ちを抑えかね、遠くシンへと続く窓の外の青空を見上げたのだった。