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1.言葉は宙に舞い、想いは地に残る

 まるで白い闇のようだ。
 ロイはそう考えながら、僅かに皮膚の上に残ったぐらぐらと己の輪郭が揺らぐよう不安定さに眉を顰めた。二度目とは言え、自身の肉体が分解、再構築されるという経験には、どうにも慣れることが出来なかった。
 ふと天を仰げば、平衡感覚さえ失ってしまいそうな一面の白が、見えなくなっていた筈の彼の視界を埋め尽くし、ロイはあまりの眩しさに目を瞬かせた。光を失い暗闇に閉ざされた世界は今、全く正反対の色彩で彼を包んでいる。そこは確かに、『あの空間』であった。
 何も無いどこまでも続く空間は、絶対的な静けさの中に凄まじい威圧感を秘め、ロイを圧倒する。その原因が己の背後にある事は、振り向かずとも彼には分かっていた。
 膨大な質量をもってそびえ立つ真理の扉は、ただそこにあるだけで無謬の存在感を誇示していた。それは同時に、『それ』がそこに存在することも意味していた。
「性懲りも無く、また来たのかね」
 予測通りとも言える、『それ』の呆れた声が背後から彼の鼓膜を打った。
「来てはいけなかったかね」
「いや。ただ、物好きだと思ってね」
 まるで彼を揶揄するかのように、彼と同じ笑い方でクツクツと喉を鳴らす『それ』に、ロイは苦笑した。まったく。『己』という存在と相対する事は、なんと腹立たしいことだろう。
 ロイは苦笑を崩す事無く、ゆっくりと振り向いた。視界は相変わらず一面の白だった。しかしそこには、彼女の背の紋様と非常に良く似た彫刻が施された扉が立っている筈だった。視力を失う直前に見た異様なまでの存在感と、その隙間から這い出た黒い手のもたらした根源的な恐怖を思い出し、ロイは真っ白な視界の中で微かに身震いした。
「恐ろしいのかね」
 まるで彼の心中を見透かしたかのような声が、扉の前から響く。ロイは声のする方へと、見えぬ視線を動かした。
 ほんの数刻前に対峙した形の無い人影を思い出し、己の現状を鑑みたロイは、何も無い空間にぼんやりと浮かぶ人型に黒い瞳だけが浮かぶ様を脳裏に浮かべ、その不気味さに軽く頭を振った。そして、あまり気持ちの良くない己のその想像を、一瞬で心から追い出し、『それ』に向かって鷹揚に肩を竦めてみせた。
「偉大なる知識とは、時に畏怖の対称となるものではないのかね?」
「それは偉大なる力と言い換えても良いのではないかね。そう、例えば焔の錬金術のように」
「ああ、否定はしないね。だが、『真理』とはそれほど生半なものでもあるまい」
「確かにそうかもしれんな。私も否定はせんよ。だが、真理を手にした今、君に恐れるものがあるとでも?」
「ああ、私には怖いものだらけだ」
「真理を見た君が、か? 謙虚も行き過ぎると不遜だと思うがね」
 回りくどい禅問答のような会話に、ロイは浮かべた苦笑を更に濃くすると『それ』の名を呼ぶ。
「『真理』よ、私が此処に何をしに来たか、分かっているのだろう?」
 ロイの問い掛けに対し、神であり、世界であり、全であり、一であり、また彼自身であるところの『真理』は、彼と同じ声と同じ口調で鷹揚に返事をして寄越した。
「ああ、勿論だ。しかし、代価がそれで君は後悔しないのかね?」
「何を今更」
 彼女の口癖を真似、ロイは彼女との約束を思う。そう、後悔することなど、今更何も無いのだ。過去に犯した罪に、また幾つかの命の代価が加わるだけなのだから。それを乗り越えてなお、彼は償いの道を求めねばならない。それが、彼の人生を賭した目的なのだ。そして、エルリック兄弟のように目的のために手段を選ぶ程、彼は若くも青くもなかった。
 ロイは手の中の紅い石を弄びながら、不敵に笑った。
 
         §

 真理を見た衝撃、確かにそれは大きなものであった。だが、その直後に彼に突きつけられた現実は、あまりにも非情なものであった。
 真理の対価として己が視力を失ったことをロイが知ったのは、まさに最終決戦の場とも言える「お父様」の前に投げ出されたその時だった。総力を挙げた戦闘の最中に視力を失うことは、ただの無能力者に成り下がると同義であり、ロイは激しい失意と混乱の中で最も恐るべき敵と対峙するという最悪の事態を迎えたのだ。
 彼はこれまで幾度となく絶望的な状況や、絶体絶命の危機を、己の機知と才覚で乗り越えてきた。だが、今回ばかりは勝手が違った。
 目が見えなくては戦況を捉えるどころか、敵の位置を把握することすら出来ない。攻撃、防御、思考の判断基準の根幹を奪われ、流石の彼も対応策を考える余裕もなく、ただ目が見えないと言う現況を受け入れる事で精一杯となってしまう。
 まるで頭の中まで暗闇に包まれてしまったような感覚を覚え、ロイは呆然と手で額を押さえ、その場に座り込んだ。
 エドワード・エルリックや、他の聞き慣れぬ男女の声、それにセリム・ブラッドレイが口々に彼の頭上で話す声が響く。だが、全ての言葉はロイの中で意味を成さず、失意に打ちひしがれる彼の周囲を雑音としてすり抜けていく。ただ、誰の者とも分からぬ声が高らかに言い放った言葉だけが、彼の中でこだまのように響いた。
「国の先を見据えた者は視力を持って行かれ、その未来を見る事がかなわなくなった。人間が思い上がらぬよう、正しい絶望を与える。それこそが『真理』だ」
 これは己への罰だというのか。
 ぐるぐると頭の中で言葉が回り、ロイは両手で顔を覆った。思考が空転し、バクバクと己の心音が割れ鐘のように鳴り響く。それは、今まで彼が味わったこともない絶望と混乱であった。ロイは冷静さを取り戻すことが出来ずに、その場にうずくまるばかりであった。
 と不意に、ズンと腹に響く振動と爆破音、そして高い所から何かが落下する凄まじい地響きが轟いた。そんな中、状況が掴めない為に身動き一つ出来ないロイの身体を庇うように、細い女の手がロイの両肩を掴んだ。
「中……」
 反射的にそう言いさして、ロイは己が絶対にその場にいる筈のない人物の階級名を、呼びかけた事に気付く。この場には人柱となる人間以外は、召還されていないらしい。となると、おそらく彼女は、エルリック兄弟らの話しに聞く、彼らの師匠イズミ・カーティスであると考えるのが妥当であろう。真理を見た者で女性と言えば、彼女しか該当者が思い当たらなかった。
 ロイは、そこでハッと己の思考が焦点を持ち、一つの像を結ぶのを感じた。
 そうだ、リザだ!