閉じた世界に囚われた君を救い出す為の連立方程式 サンプル

 火曜日の三時限目と四時限目の間の休み時間、梨紗はいつものように窓際の自分の席から窓の外を眺める。今日は通るだろうか? いや、ダメもとなんだから、期待はしない方がいい。偶然。そう、偶然姿が見られたらいいな、そのくらいにしておかないと。
 中庭に面した新館校舎の二階から、二年生の教室のある旧校舎に繋がる渡り廊下にじっと視線を送り、彼女は期待する自分の心を戒める。新館から旧校舎に移動するルートは二つ。ピロティを抜けて旧校舎の中央の入り口から入るコースと、中庭を抜けていくこの渡り廊下を通過するコース。確率はまさに、フィフティ・フィフティなのだ。
 まるで人生の大問題のように真剣な瞳で、それでも傍目にはぼんやりと窓の外を眺めている風を装いながら、梨紗は渡り廊下を見つめ続ける。まったく、来るなら早く来てくれればいいのに。梨紗は胸のうちで文句を言った。
 そんな梨紗の願いが通じたのだろうか。エル字型に曲がる渡り廊下に、人影が現れた。そのシルエットを見ただけで、彼女の鼓動はいつもより速い速度で跳ね回る。だが、小走りに急ぐ男の姿は、一瞬で生え放題に生えた萩の茂みの陰に隠されてしまった。彼女の視界には、ひょこひょこと飛び跳ねる黒髪の頭頂部だけが、緑の目隠しの向こうに見え隠れするばかりだ。
 もう少し背が高かったら、顔まで見えるのに。そんな不満を抱えプッと頬を膨らませた梨紗の視線の先で、植え込みの切れ間から男の全身が再び姿を現した。梨紗は自分でも気付かぬうちに身を乗り出して、男の姿を目で追った。
 彼女の担任教師・増田英雄は、四時間目の二年生の授業に遅刻しそうになり、スーツの裾をはためかせて小走りに渡り廊下を駆けていく。そして、彼女の視線に気付くことなく、陸上部の顧問らしい大きなストライドで、あっと言う間に校舎の中に駆け込んでいってしまった。
 梨紗が中庭を見つめて待ち続けた時間七分、彼が中庭を駆け抜けた時間七秒。どうにも割には合わないけれど、それでもその七秒は、梨紗にとってはかけがえのない一瞬なのだった。
 生徒には廊下は走るな、って言ってるくせに。そう思いながらも緩む口元を抑えきれず、梨紗は少しだけ俯いてその表情をクラスメイトの目から隠した。そして、こっそりと小さな幸福を噛みしめ、何食わぬ顔で現国の教科書を開いた。と同時に、ガラリと教室の扉の開く音がする。
「あんた達、授業を始めるよ。先に言っとくけど、受験に関係ないヤツも、内職するんじゃないよ。センター試験が近いと言っても、授業は授業なんだからね」
 威勢のいい声を上げて、今日もまたチャイムの鳴る少し前に現国の泉先生が教室に入ってきた。増田先生も、少しは泉先生を見習えばいいのに。梨紗はどう考えても、実現が難しそうなことを考える。ま、それが出来ないところが、増田らしいところなのだが。
 梨紗は内心でクスリと笑うと、ノートを開き几帳面な字で板書を写し始めた。この時期、受験を控えた三年生の授業は、センター試験に照準を合わせた内容半分、教科書の消化が半分と言ったものになっている。それは梨紗たち三年生に、高校生活がもうあと残り僅かであることを明確に示しているようで、カツカツとリズミカルに黒板に書かれていく文字を追いながら、梨紗は微かな胸の痛みを感じる。
 もう少し、あと半年もしないうちに受験のシーズンがやってきて、そして卒業式がやってくる。卒業してしまったら、もうこんな風に教室の窓から増田の姿を見ることさえ出来なくなってしまうのだ。梨紗は一瞬だけ中庭に視線を落とすと、諸々のことを振り切るように小さく頭を振り、現国の授業に気持ちを集中させたのだった。