分水嶺 サンプル

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 驚くほど声の良い男だ。
 それが、梨紗の増田への第一印象だった。
 こうして職員会議で何てことのない発言をしている時でさえ、無駄に朗々と響く声が耳に心地好い。
 梨紗は学年末考査の時間割が書かれた手元の書類をぱらりとめくって、少しだけ思考を会議の内容から脇道に逸らす。そして、手の中で弄んでいた銀のボールペンも持ち直すと、素知らぬ振りで、自分の向かいの席に座る増田の声に耳をそばだてた。
 流石に学年末考査も三度目となれば、梨紗にも多少の余裕がある。それは即ち、梨紗がこの学校に勤めるようになって、もうすぐ丸三年になるという事実を示していた。
 同様に考えれば、目の前の増田との付き合いももうすぐ三年。こちらは、出会った日から何の変化もなく、ただの職場の同僚という最低限の関わりを保っているに過ぎない。
 
 この学校に赴任した最初の日、彼女は増田と出会った。同じ教師として梨紗と同じ日にここへやってきた彼は、実に気さくな様子で、彼女と相対した。
「数学を担当します、増田英雄です。どうぞ、よろしく」
 女に好かれることに慣れた男に特有の慣れ慣しさを漂わせる男はさっと梨紗を一瞥すると、同時に如才のない笑顔を作り、よく通る明るい声でそう言った。単なる自己紹介にも関わらず、人を値踏みするようなその視線とちっとも笑っていない瞳が妙に梨紗の気に障り、彼女は即刻の内に男の名を己の頭の中にある友好関係のリストの最下層に書き付ける判定を下す。大学に居残り研究に明け暮れていた彼女には、全く縁の無かったタイプの男に、彼女は全く興味を見出せなかった。
「鷹目です。よろしくお願いします」
 彼女は最低限の挨拶の言葉を吐き出すと、小さく頭を下げてサッと男から視線を逸らせた。目の前で増田が鼻白んでいるのが分かったが、職場での付き合い以外に彼女とは何の接点もなさそうな男に、どう思われようと梨紗にはどうでも良かった。だから、さっさと男に背を向け自分の席に着こうとした彼女の背後で、増田が漏らした苦笑にも全く気付かなかった。
 なのに。
「参ったな」
 小さく吐き出された驚くほど低い声に、梨紗は思わず振り向いた。
 ボソリと呟かれたその言葉は、まるで大きな弦楽器を指で爪弾いた時のような響きを持っていた。身体の奥深くまで染み透るような、穏やかでよく通る音色が、梨紗の耳を心地好く刺激する。楽器をイメージしたのは、ひどく低いくせによく通るその声質のせいだろう。さっき彼が自己紹介した時の浮ついた口調と余りにギャップのある、落ち着いた柔らかな独り言は、梨紗の中に小さな波紋を刻む。
 自分でもなんに反応したのか一瞬理解できずにいた梨紗は、面食らった表情の増田を見て我に返る。そして、彼の独り言に反応していきなり振り向いた梨紗に対して、奇妙なものを見るように視線を注ぐ増田に気付くと、その不躾な視線に不快感を覚え、再び男に背を向けた。
 増田の方もまた、梨紗を理解することを諦めたのだろう。彼は気障な様子で肩を竦めると、梨紗に背を向けその場を立ち去っていったのだった。
 その時二人の間に築かれた距離は、三年経った今もそのまま、彼らの間に横たわっている。
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 鷹目だ!
 やはり彼の心配は、現実のものとなっていた。
 だから、言わんこっちゃない! 増田は思い切りバイクのアクセルを開き、一気にギアをあげると弾丸のように走り出した。静かな街を引き裂くエンジン音に彼の方を振り向く鷹目の姿が、スローモーションのように揺れる。不安を露わにした鷹目の大きな目が、これ以上ないほどに見開かれている。増田は目で距離を測りながら、細心のテクニックを持って巨大なバイクを、鷹目と原付の間に割り込むようなざっと斜めに滑り込ませた。
 増田はバイクのヘッドライトを真正面から原付に向け、相手を威嚇する。職場で配られた書類に書かれていた特徴と一致する原付とそれに乗る巨漢のシルエットに、増田は自分が間一髪のところで間に合ったことを悟った。
 本来ならこのバカ男をとっ捕まえて警察に突きだしてやりたいところだが、靴擦れを作ってまともに歩くことも出来ない女を庇った上で、この巨体とやり合うという荒技は流石の増田にも無理な話だった。柔道部の豪腕先生でもいれば話は別なのだが。増田は後輩のキューピーのような前髪を思い出しながら、ハンドルにぶら下げていたもう一つのヘルメットを、鷹目に向かって差し出した。
 こういう場合、とるべき方法はたった一つ。とりあえず、三十六計逃げるに如かず、だ。彼はヘルメットのシールドをあげて、声を張り上げた。
「乗って!」
 何が起こったのか分からない様子で眼を瞬かせる鷹目は、増田の声に反応し、しばらく彼の姿を確認するように眺め、当然の質問を口にした。
「増田先生!? どうしてここに?」
「いいから、早く!」
 増田はエンジンを噴かし、彼女を促す。
「でも、私スカートで……」
 増田の剣幕に動じる様子も見せず、鷹目は全く場違いな発言で増田を苛立たせる。ブチ切れそうになりながら、彼は鷹目を振り向き、思い切り怒鳴った。
「いいから、さっさと乗れ! 話は後だ!」
 陸上部の練習中には校庭に響き渡る怒声が、エンジンの煩さを凌駕し、彼のあまりの剣幕に鷹目はびくりと黙り込み、急いで彼の手からハーフのヘルメットを受け取ると頭にそれを乗せた。増田は彼女が乗り易いようにバイクを傾けながらも、向かい合う男から目を離さない。隙を見せたら、この手の輩は何をしてくるか分からない。そう気負う増田の背後で、気の抜けるような鷹目の声があがる。
「あの、足下熱いんですけど」
「仕方ないだろう、マフラーがあるんだから」
 気持ちが挫かれないよう己の持てる忍耐力を総動員しながら、増田はそれでも律儀に鷹目に答えてやった。だが、鷹目の返事は、更に彼の予想の斜め上をいくものだった。
「マフラーって、首に巻くあの……」
「ボケてる場合かっ! 出すぞ、黙って掴まってろ!」
 遂に怒りを爆発させた増田はヘルメットの中で喚くと、鷹目の次の言葉を無視してバイクを急発進させ、一気に原付の男との間をあけるべくスピードを上げる。突然のGに驚いたらしい鷹目は、必死に増田にしがみついてくる。背中に当たる彼の目測以上に豊かな双丘に邪な感情を刺激されながらも、増田は何とか安全運転で住宅街を走り抜ける。
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「だ、誰も、増田先生のために買ったんじゃないんですからね!」
 梨紗のあまりに大仰な反応に、増田は明らかに吃驚した表情でまじまじと彼女を見つめ、それから絶滅寸前の希少生物を見つけた学者のような顔でしみじみと言った。
「君、本当に時々ツンデレのテンプレみたいな反応するよなぁ。ある意味、最強かも」
「どういう意味ですか?」
 莫迦にされたのかと憤る梨紗に、増田は片頬だけで笑った。
「あんまりそんな風な態度をとられると、期待したくなるって意味だよ」
 流石に、何を? と聞き返すほど梨紗も鈍くはない。どういう反応をしたらいいのか分からず、彼女は穴があくほど増田を凝視し、手の中のパンを握りしめた。頬が熱くなり、鼓動が早鐘のように脈打つ。増田は珍しく動揺した様子をみせると口元を押さえ、参ったなとあの独特の低い声で呟いた。梨紗はその声に、また耳を奪われる。
「頼むから、そんな目で見ないでくれ。その目に殺されそうだ」
 おどけた増田の気障な言葉に彼女は更に動揺し、視線を爪先に落とす。返す言葉も視線も封じられては、もう本当にどうしようもない。すっかり俯いてしまった彼女の視界の中に、青い大きな運動靴が躊躇いがちにゆっくりと近付いてくる。
 梨紗は急激な男の接近に、息を飲んだ。腕を伸ばせば届きそうな距離で、運動靴はその歩みを止める。永劫のようなしばしの沈黙が、世界を満たす。梨紗はぎゅっと目を閉じて、彼女をかき乱す全てをやり過ごそうと身を堅くした。しかし、閉じることの出来ない耳から、甘い嵐が梨紗を襲う。
「俺は、期待してもいいのかな?」
 低い柔らかな声が、鼓膜を打った。梨紗には答える言葉がない。何故なら彼女にも、彼女自身がどう考えているか分かっていないのだから。毎日放課後の校庭を見ながら、彼女自身ずっと考え続けているのだから。
 梨紗の困惑を微笑を含んだ溜め息で受け止め、増田はもう一歩梨紗の方へと歩み寄った。びくりと身を縮めた梨紗の耳元で、ぶっきらぼうな言葉が震えるほどに甘い声で囁かれる。
「また、食事に誘っても?」
 梨紗はほんの少し躊躇って、コクリと頷いた。