Carpe diem サンプル

1.始まりの夜

 霧のように細かな雨に煙る街に、駅前の広場の時計が二十時を告げる鐘が鳴り響いた。
 リザはその音に一瞬立ち止まり、傘の縁越しに星の欠片も見えない真っ黒な夜空を見上げた。そして彼女は、少しだけ歩くスピードを上げる。
 特に時間の約束をしている訳ではなかったが、あまり遅くなると明日の仕事に差し障る。それに、何より彼らにとって重要なこの時間を、バタバタと慌ただしく終えるようなことはしたくなかった。
 何故なら『それ』は彼らにとって、年に一度の大切な約束であるのだから。
 それなのに、こんな日に限って雨が降るなんて。リザは自分の上官を無能にし、今は自分の逸る心の邪魔をする薄い雨の幕を恨めしく見つめる。
 斜めに降りつける細かい雨に、とっくの昔に傘はその役割を果たすことを放棄していた。リザは自分のコートがゆっくりと雨に浸食され、湿り気を帯びていくのを感じ、無意識に胸元に抱えた鞄を抱き締めた。鞄の中に入れているのだから、『それ』が濡れる筈が無い事は頭では分かっていても、身体は大切なものを守ろうと自然に動いてしまうものなのだ。
 リザは『それ』を自分の心臓に一番近い位置に抱き、彼女の為に部屋を暖めて彼女の到来を待っているであろう男のことを思う。
 そして、彼と始めた莫迦莫迦しくも、大切な決まり事に想いを馳せた。

 自分たちが『それ』を始めたのがいつであったか、彼女もはっきりとは覚えていなかった。ただ、そのきっかけが、ある日のベッドの上での会話であったことだけは、覚えている。
 リザが彼と褥を共にするようになったばかりのあの頃、彼はまだ中佐で今程の権限を持たず、彼の好むと好まざるとに関わらず、彼は危険な任務の最前線に放り込まれる日々を送っていた。当然、副官として彼につき従うリザも同様の環境に身を置いていた訳で、彼らの日常はイシュヴァール内乱の頃ほどではないものの、生死の境界をすり抜ける危うさを孕んでいた。
 『それ』は、そんな日々が生んだ彼らにとっては不可欠であり、おそらく端から見れば奇妙な習慣であった。
 だが、他人にどう思われようと、『それ』のお陰で彼女はある種の心の平安を得ることが出来た。ロイが毎年『それ』を当然の事のように慣行しているということは、おそらく彼の方も同じように感じているのだとリザは思っている。
 だからこそ、こんな雨の日でも、彼女は彼の元へと出向いて行くのだ。

 闇を透かし見れば、夕刻に見た男の憂いを含んだ黒い瞳がリザの脳裏にちらつく。リザは考え事による時間のロスを取り戻すべく、また少し歩く速度を上げた。
 霧雨は容赦なく、彼女の体温を奪っていく。それでも彼女はただひたすらに、冷たい雨に身体の芯まで凍えながら、『それ』を大切に胸に抱え、小走りに彼の家に向かっていった。
 
「天気予報も当てにならないな」
 ようやくたどり着いた玄関でチャイムを鳴らせば、待ちかねたように扉はすぐに開けられた。
 彼女の予測通り玄関まで暖められた家で、人待ち顔の上官はタオルを片手に彼女を待ち受けていた。リザは彼の手からタオルを受け取り、自分の身体よりも先に鞄に付いた水滴を拭うと、律儀に彼に向かって一礼した。
「お気遣い、ありがとうございます」
 僅かに他人行儀な、未だ昼間の上司と部下の領域に片足を突っ込んだ状態のまま、二人は夜の逢瀬を果たす。
 僅かな沈黙が二人にその領域を知覚させ、その距離を詰めるように、男は彼女の手から強引に畳んだ傘を取り上げた。触れたロイの掌の熱が、彼女に自分の氷のように冷たい体を自覚させる。それは同時に、彼の掌にも伝わったらしい。
「すっかり冷えてしまったようだな、大丈夫か?」
 その言葉と共に、男の熱い手が彼女の雨に濡れて冷えきった手を包み込んだ。一足飛びに二人の間の空気が、男と女の領域に傾いていく。
 雨に濡れたリザの手があまりに冷たいことに驚いたロイは、ふっと悪戯に唇を笑みの形に変えると、彼女の手を引き寄せ、その逞しい肉体で彼女を包み込んだ。心地好いその温もりに心の箍を緩ませながら、だが、リザは素気無く彼の身体を押し戻した。
「いけません。大佐まで、濡れてしまわれます」
「構わん」
「こちらが構います。お風邪でも引かれては、明日以降の業務に差し障ります」
 あくまでも生真面目なリザの物言いに、ロイは身体を引くと、すっかり鼻白んだ様子で肩を竦めてみせる。
「君ね。こんな時まで、私よりも仕事の心配かね」
 唇だけで笑ってみせるリザに、ロイは諦めの体でお手上げのポーズを取った。リザは自分が雨の中を急いで来たことなど全く窺わせぬ様子で、澄まして答える。
「せめて、タオルを使わせていただいて、濡れたものを脱ぐ間くらいはお待ち下さい」
「コートだけじゃなく、他も脱いでくれて構わんのだがね」
「寝言は寝ている時だけにして下さい」
 ウォーミングアップのように行われる戯れ合いに、二人はゆっくりと互いの距離を詰めていく。リザがコートを脱いでしまうと、ロイは無言でそれを彼女の手から奪い、そのまま彼女を抱き寄せた。今度は彼女も抵抗せずにその大きな手に身を任せ、伝わる温もりに心を解いた。
 リザの心がオンとオフのスイッチを切り替えた事に気付いたロイは、ほうっと緊張を解いた証のような吐息を吐き出すリザの唇を、静かに己のそれで塞いでしまう。温かな唇が彼女の凍えた唇を溶かし、リザは彼の熱い吐息を飲み込む。
 男の熱は彼女の体温を上げ、彼女の隠した想いの熱を上昇させる。侵入する舌を遠慮がちに迎えれば、すっかり男の顔になったロイは、思うさま彼女の内側を堪能する。
 リザの頬がその熱に薔薇色に染め上げられる頃、ロイはようやく満足したように彼女の唇を解放した。
「中に入ろうか」
 リザがこくりと頷くと、ロイは彼女の先に立って歩き出した。タオルで髪を拭いながら彼の後を歩くリザに、ロイは背中越しに語りかけてくる。
「こういう雨が一番鬱陶しいな」
「知らぬ間に濡れてしまいますからね」
「濡れると如実に体温を奪われるのが厄介だ。ああ、君。先に湯を使うかね?」
「お気持ちだけ、ありがたく頂戴しておきます。随分お待たせ致しましたから、お腹が空いていらっしゃいますでしょう?」
 彼女の気遣いの言葉に、ロイは笑って振り向きながら、リビング・ダイニングの扉を開けた。
「君ね。欠食児童でもあるまいに、そのくらいは待てるぞ?」
 リザは静かに頭を横に振ると、彼の後に続いて部屋に入り、そのまま幾つもの箱が置かれた傍らのダイニングテーブルへと歩み寄った。ざっとそれを確認するリザの背に、男の声がかけられた。
「レストランに注文しておいた品は、それで全部だ。ああ、サラダとオードブルだけは、配達の男に言われたとおり冷蔵庫にしまっておいた。スープは君から電話を貰ってから温めたから、そのまま出せると思う」
「お手数をお掛け致しました」
 リザのコートを手近なハンガーに掛けたロイは、てきぱきと箱を開けケータリングの料理を盛りつけていくリザの手元を見つめている。
「何か手伝うことはあるかね?」
「大人しく座っていて下されば結構です」
「邪魔だというわけか」
 ロイはリビングの片隅に置いたソファまで歩いていくと、ワイシャツの襟元を緩め、ソファに身を沈めた。時間を潰すつもりなのか、読みかけて伏せたままになっていた本に手を伸ばし、ロイは振り向いて彼女に問う。
「レストランで外食でもしてしまった方が、君は楽じゃなかったのかね」
「でも、それではゆっくり出来ませんから」
「確かにそれはそうなんだが」
「お皿に料理を並べるくらい、何の負担でもありません。どうぞ黙ってお待ちになって下さい、すぐに準備を済ませてしまいますから」
 そう答えたリザは少しだけ温め直した美しい翡翠の色をしたスープを皿に注ぎ、テーブルに並べた。
 魚介がメインのオードブル、熱いブロッコリーのポタージュ、瑞々しいグリーンに温野菜を混ぜ込んだサラダ、滑らかなマッシュポテトを添えたタンシチュー。あっと言う間に、食卓には美味そうな簡易のフルコースが並んだ。
 デザートは、食後の珈琲と一緒に用意すればいい。リザはそう考えながら、ソファで読書の続きに戻ってしまいそうなロイの元に歩み寄り、その手から分厚い本を取り上げた。
「大変お待たせ致しました、大佐。ディナーの準備が整いました」
そして、彼女は取り上げた本の代わりに、彼の手に小さな包みを押し付けて言った。
「そして、お誕生日おめでとうございます」
 リザの言葉にロイはくすぐったそうに目を瞬かせると、如何にもな照れ隠しの言葉を吐き出してみせる。
「そろそろ三十路も近付いてきては、めでたいのかどうかも分からんが、な」
 リザは奇妙なところで素直ではない上官の言葉を笑い、穏やかな口調で彼をたしなめる。
「少なくとも、この年齢まで生き延びられたお祝いは出来ますでしょう?」
「違いない」
 命の重みをその身をもって知っている男は、彼女の言葉に素直に首肯すると、贈り物のリボンに指をかけた。ガサガサと無頓着に包みを開いていくロイを牽制するように、リザは言い足した。
「お気に召しますか、分かりませんが」
「大丈夫さ、君の審美眼は結構高く評価している」
 僅かに緊張するリザの目の前で、ぱっとロイの微笑がこぼれた。
「ああ、君らしくて良いな」
 ロイは嬉しそうに、箱の中からシンプルな銀のカフスを取り出した。彼はしばらくそれを眺めていたが、やがて大切そうにそれをもう一度箱に仕舞うと、サイドテーブルの上に置いた。
「今年も無事に、君とこの日を迎えることが出来て、嬉しいよ。リザ」
「でしたら、秘蔵のワインの一本でも開けて下さいますか?」
「喜んで」
 オーダーを受けたソムリエのようにリザに向かって大袈裟に一礼し、ロイは冷蔵庫に向かって歩き出す。その後ろ姿に肩を竦め、彼女は食卓に着くと彼がワインを開けるのを待った。
 端から見れば彼らのやりとりは、恋人同士が誕生日を祝って、特別な夜を楽しんでいるようにしか見えないだろう。
 あながち、それは間違っていないけれど、それだけではないのだ。リザはそっと椅子の後ろに置いた鞄に触れ、大切に仕舞った『それ』を確認する。一番大切なのは、『それ』だった。
 ポンと小気味良い音を立てて、ロイがワインの栓を抜いた音が部屋を賑わせた。リザははっとして、後ろ手にしていた手をテーブルの上に戻すと、ロイの差し出したグラスを受け取った。
「乾杯を」
「何にかね」
「お好きなものに、どうぞ」
「では、一年無事に生き延びた悪運に」
 素直ではない、だがある意味とても切実なロイの言葉に、リザは微かに苦笑する。そう、彼らがこうしてまた一年を共に生きているのは、祝うに値する出来事であるのだから。
 淡いライトの光にグラスを掲げた彼らは、まるで『それ』を始める前に必要な一つの儀式のように、穏やかに遅いディナーを楽しみ始めた。